ドラえもん関連

ドラえもんのペコペコバッタ

ドラえもんの記念すべき第一巻の七話に収録されている『ペコペコバッタ』という話がある。

のび太が道を歩いていると、いきなりボールが飛んできて顔面に直撃する。

当然ながら「謝れ!」と、遊んでいたジャイアンやスネ夫、その他の友人たちに要求する、のび太。

しかし、開き直られてしまい、謝罪すらしてもらえない。

これを聞いたドラえもんが『ペコペコバッタ』という秘密道具を登場させる。

このバッタが体内に入ると、誰でもすぐに謝るようになる。

興味深いのは『ベトナム戦争』、『光化学スモッグ』『物価の値上がり』、このスケール大きな事象までもが自分のせいだと言う人間まで出てくる。

その自罰傾向というのが鬱病の症状と凄く似ている。

鬱病で入院された経験を持つ方とお話させていただいたことがあるのだが、自分がふらりと飲食店に入って、出された皿が汚れていたとしたら、それすら自分に非があるからだと、関連付けて考えてしまうらしい。

『ペコペコバッタ』自体は、大変面白いおかしい話なのであるが、元来、繊細な民族である日本人が元々持ち合わせている“自罰癖”というテーマを、こんな形で子ども向け作品に入れてしまう、藤子F不二雄先生の手腕には改めて驚くばかりだ。

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ドラえもん『ぼくよりダメなやつが来た』

最近、何度も読み返しているのがてんとう虫コミックス23巻に収録されている『ぼくよりダメなやつが来た』という話。

ある日、のび太のクラスに転校生がやってくる。彼の名は多目くん。

見るからに、のんびりしていて優しそうな感じ。

のび太と似たようなタイプなのだが、彼よりも大人しい性格。

この多目くん。のび太よりも、勉強や運動ができないのだ。優越感を感じたのび太は、多目くんと一緒に遊び、かけっこをしたりして悦に浸る。

一緒に廊下へ立たされたのび太と多目くん。

これからも0点を取って仲良くしていこう、というのび太に対して、多目くんは、できれば僕は自分を変えたいし、ダメなままでいたくないと、遠慮がちに話す。

自分に逆らうとは生意気なと、憤慨するのび太。

横柄な態度をとり始めたのび太に対して、ドラえもんは『配役いれかえビデオ』という道具を取り出して、見せる。

その映像の中での、のび太と多目くんが、スネ夫とのび太に入れ替わる。

ここであることに気づくのび太。

のび太がこれまで多目くんにしてきたことは、今まで自分がジャイアンなどのいじめっこにやられてきたことだったのだ。

自分の代わりに野球に参加して、ジャイアンたちに殴られそうになっている多目くんを見かねて、家を飛び出すのび太。

多目くんの身代わりになって、殴られる。

突然、転校することになった多目くんは、のび太に君ほど僕に親切にしてくれた人は始めてだったと涙ながらにお礼をいう。

これまでの自分の行動を省みて恥ずかしくなる、のび太。

「穴があったら入りたい」というのぶ太の言葉を受けて、『即席落とし穴』なる道具を使って、本当に穴へドラえもんがのび太を落としてしまう、とまあこんな話なのだ。

大人になってから読むと、本当に名作だなと思う。

男だったらその傾向がなおさら強いのだが、ある集団ができると必ず序列が形成される。そして時間とともに『イジメられ役』『イジラレ役』が出現し、そのパワーバランスが変わらない。

イジラレ役、イジメられ役が姿を消すと、今度はまた別のそういう存在が自然と作られる。

人間の醜い面だなと、思うもののDNAに刻み込まれた性質だとも感じる。

なぜF先生が『僕より多目なやつが来た』という傑作を生み出せたかといえば、それは恐らくF先生が、幼い頃に、のび太や多目くんのような存在だったのだ。

そして、その時の記憶をいつまで経っても、リアルに覚えておられたからだろう。

F先生は、亡くなるまで純粋な方だったに違いない。

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のび太の発言から見て取れる差別意識

のび太はドラえもんに助けられてというか、甘やかされてばかりいるイメージがある。

だが時折ロボットを差別しているとしか思えない発言がある。

『かぜぶくろ』という話で、のび太はドラえもんに対してこんなことを言っている。

『ばかとロボットは、かぜをひかない』

あれだけ世話になっておきながら、ロボットに対する無意識の差別意識が垣間見れる貴重な瞬間だ。

これが『ロボットはかぜをひかない』なら、何も問題ないのだが、馬鹿と並べることに悪意を感じる。

しかし、漫画に出てくるロボットというのはよく差別されている。

その最たる例が

『魁!!クロマティ高校』というギャグ漫画に出てくるメカ沢新一だ。

彼はなぜか高校生という設定で、ロボット差別ネタでかなり笑いを取っている。

ボタンひとつで初期化されるなど、相当ひどい扱いを受けていたりする。

メカ沢くんの弟で「メカラッタ!」としか喋れない『メカ沢β』なんか

誤ってゴリラに体を踏み潰され、ぺしゃんこになっていた。

なぜロボット差別が笑いになるか?

当然ながら我々がロボットではないからだ。

ロボットに心はないのだろうが、もしロボットがクロ高を読んだら、はらわたが煮えくり返るのではなかろうか?

ここには明らかに、人間という優位な側から、ロボットを見下ろしている、という構図があるのだ。

前にある週刊誌にピーター・アーツが日本人に対して行った“ナンパ”の証拠というのが載っていた。

英語の走り書きで紙に何か書かれており、その隣に日本語訳が載っていた。

確かこんな内容だったはずだ。

『この店を出てどこかへ行かない? このことは近くにいる黒人には内緒だよ』

この“黒人”はアーツと一緒に店へ来ていたアーネスト・ホーストを指している、と週刊誌には書かれていた。

僕はここからアーツの差別意識みたいなものが薄っすら漂ってきている気がした(ちなみにホーストはスリナム共和国というアフリカの出身だが、国籍をアーツと同じオランダに移している)。

恐らく白人側から見下ろした有色人種蔑視のユーモアというのは、かなりの数あったはずである。

現にモンティ・パイソンを見ていても、黒人差別をモロにやっているネタがあった。

これはバロウズの『ターザン』も然りである。

百年前と比べると、建前上は差別してはいけない、という風潮にはなっている。

しかし白人たちから、我々有色人種に対する差別意識がなくなったとは到底思えない。

だからこそ、時折オフレコであるはずの有色人種蔑視発言が、外部に漏れて問題になり、“建前上”謝罪するということがある。

だがこれはなくならないものだと思う。

自分と他者を比較して優越感に浸るというのは、多くの人間に備わった“習性”なのだ。

かなり仲の良い、のび太とドラえもんの間にですら、差別意識は存在するのだから。

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ドラえもん『森は生きている』

てんとう虫コミックス26巻に収録されている『森は生きている』を久々に読み返した。

昔に読んだことがあったはずだが、今読み返すとまるで読み方が変わってくるのが面白い。

あらすじはこんな感じ。

学校が終わっても帰宅しないのび太を心配し、探しているドラえもん。のび太は学校の裏山で寝転んでいる。

「ここで寝転んでいると、嫌なことを忘れられるんだ」とのび太。

山にゴミが捨てられていると、腹が立つというのび太を見て、ドラえもんは珍しく感心する。そして『心の土』という道具を出す。これをばらまくことで、のび太と山の間に心が通いあう。

毎日、山に赴くようになるのび太。木の葉やキノコで作ったベッドにのび太を寝かせたり、木の実を与えたりと、山もいろいろなサービスを施す。

居心地のよくなったのび太は、対人関係を絶つようになる。

ジャイアンやスネ夫からの野球の誘いは断り、夕飯の時刻になっても家に帰らなくなる。

心配したドラえもんが、のび太に説教をする。

「山より友達と遊べ」と。

しかし、のび太の心は変わらない。

そこでドラえもんは、『心よび出し機』なる道具を使い、山の心にお願いをする。最初は断った山の心。だが、ドラえもんの申し出を受け入れる。あえてのび太にいじわるをして、山から追い払うのだ。

こうしてのび太は日常へと帰っていく。

これが発表されていた時はまだ問題となっていなかったと思うが、引きこもりやニートと、山に安住するのび太の状況というのは酷似している。

山に篭ったのび太に対しての、ドラえもんの台詞が秀逸だ。

「ここにいれば誰にもいじめられないし、たべものも山が出してくれるんだよ!!」

という、のび太へドラえもんがこう告げる。

「たべて生きているだけでいいのか!! こんなことをつづけてたらきみはだめになっちゃう!! かならずだめになるぞ!!」

恐らくニートや引きこもりの人たちには、ドラえもんのように本気で怒ってくれる人間が周りにいないのだろう。

この作品はもちろん藤子F不二雄先生が描かれたのだが、かつてコンビを組まれていた藤子不二雄Ⓐ先生もまた、引きこもりという現代病をまるで予言したような作品(明日は日曜日そしてまた明後日もを)描かれている。

こちらは背筋が寒くなるような、バッドエンドだ。

こちらの作品については、また別の機会に記したい。

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『ライター芝居』

今日も昨日も、ドラえもんである。

てんとう虫コミックス8巻に『ライター芝居』という話がある。

『シナリオライター』という、ライターの形をしたドラえもんの道具に、自分の書いたシナリオをいれ、道具に火をつけると、そのシナリオ通りに全てが動き始めるのだ。

話の途中で、ジャイアンとスネ夫が犬をいじめているシーンがある。

『のび犬』(ダックスフンドの事)を見たジャイアンが、スネ夫と結託して、普通の犬を前後に引っ張って胴を伸ばそうとしている。

それを見た、しずかちゃんがのび太に、犬を助けてあげてと頼むのだ。

このジャイアンとスネ夫の行動は一見ひどいように映る。

しかし、どうだろうか。

自分たちの思惑通りに、動物を改良するというのは今まで人類がやってきた事なのだ。

『ミニチュアダックスフンドやチワワを作った人間は、ロリコンである』

というのが僕の持論だ。

小さい者、幼い者を愛らしいと思うように、人間はできている。

歩き始めた子どもを見ていると、子ども好きではない僕でも顔が綻んでしまう。

子犬や子猫の可愛さは言葉では言い表せないほどだ。

しかし、時間が経つとともに生き物は成長していく。

それと同時に可愛さを失っていく。

だからマコーレー・カルキンはアル中になった。

成長が止まり成熟しても、容姿は子どものままでいられる状態。

一見、不可能とも思えるのだが、人類をそれを動物で実現させてしまった。

人為的に作ったのがロリコン犬、それがミニチュアダックスフンドやチワワである。

チワワなんかは小型になりすぎて、お産が大変らしい。

サラブレッドなんかもそうなのだが、自分たちの思惑通りに品種改良して、動物の特性や容姿を変えようとするのは、神への挑戦である。

ある意味、踏み込んではいけない領域に足を踏み出している。

だから、ジャイアンとスネ夫のとった行動というのは、ひどいといえばひどいのだが、その延長線上にミニチュアダックスフンドがいるのだ。

ただ、ジャイアンたち自身が幼すぎて知恵や知識が足りなかっただけだ。

もし、彼らが『のび犬』を作りたいという思いを成人するまで持ち続けていたら、きっと何とかしてそれを実現した事だろう

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